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ビール業界の変遷(会社編)

Posted by 倖成卓志 on 27.2008 言いたい放題 4 comments 0 trackback
<<→ 前回の続き>>

 日本の「ビール大手4社」と呼ばれるのは、

 麒麟麦酒(キリンビール)
 アサヒ
 サントリー
 サッポロビール

 これに
 オリオンビール
 を加えて、「ビール大手5社」と呼ばれることもあります。

 この中で、
 麒麟麦酒
と、
 サントリー
は「赤の他人」です。

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*スプリング・ヴァレー・ブルワリー

 1870年、日本に初めてビール醸造所が出来ました。ノルウェー生まれのアメリカ人、ウィリアム=コープランド(本名:ヨハン=マルティニウス=トーレセン。渡米で改名)が山手天沼に建てたものです。 この会社が日本初であるというのが、『横浜市史稿・産業編』に書かれている定説なのだそうですが、その1年前から別の醸造所が存在していることが、明らかになっています。

 1869年、山手46番地に醸造所があったとされる、「ジャパン・ヨコハマ・ブルワリー」です。
 G.ローゼンフェルトという人物が、ドイツ人技師・E.ヴィーガントとともに始めたものですが、1874年に閉鎖されています。資料が少なく、存在はしていたものの実態が分からず、幻の醸造所ともいわれていました。このヴィンガードはローゼンフェルトとは相性が良くなかったようで、自ら退職した後に「ヘクト・ブルワリー」から誘いを受けますが、こちらのオーナーとも相性が悪かったようで解雇され、一旦はアメリカへ帰国。2年後に来日し、ヘクト・ブルワリーの土地を賃借、オーナーとして「バヴァリア・ビール」の経営に携わります。

 ビールは当初「舶来の高級品」で、ビア・ホールなどでも、客は横浜などに寄港している海軍兵たちが主流で、一般には高嶺の花でした。
 しかし、ビールの生産が増え、値段も安くなっていくと、民衆の嗜好品として広まっていくことになったのです。その中で、コープランドとヴィンガードが手を組んだのが、1876年6月15日。「コープランド・アンド・ヴィーガント商会」の誕生です。
 ところが、わずか4年後の1880年には両者は決裂。分裂し、醸造所は一旦、公売に出されますが、コープランドが買い戻しています。理由は、両者の性格が合わなかったとのこと。

 しかし、ヴィンガードという人は他人との相性がどこまで悪いんだ? ・・・と思ってしまいますが、記録にはないのですが、おそらく職人気質が強すぎたのではないかと。
 ウィスキーでも、ワインでも、他国の他のビール会社などでも起こることなのですが、醸造人と経営者(オーナー)との衝突はよくあることなのです(日本では醸造責任者も社員の一人として、「会社ありき」の存在ですが、欧州などでは非常に高く評価されている職種で、有能な人材はいろいろな醸造所からオファーを受けて移動することもしばしばです)。

 スプリング・ヴァレー・ブルワリーは経営不振から逃れられず、公売に出して、1884年にその短い歴史に幕を閉ざします。

 コープランド自身はその後、ハワイ、アメリカ、グァテマラなどを渡り歩いては商売をしていたようですが、どれもうまく行かなかったようです。


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*シブタニ・ビール、桜田ビール、浅田ビール、その他・・・

 1872年、アメリカ人ビール醸造技師のヒクナツ=フルストを迎えた大阪の渋谷庄三郎が造った「シブタニビール」が、日本人としては最初のビール醸造所となります。
 しかしこれは、渋谷が死去した1881年に閉鎖という、わずか9年の短い生涯だったのです。

 1879年、金沢三右衛門という人が東京府芝区桜田本郷町(現在の東京都港区西新橋。ちなみに、東京「都」となるのは1943年)に作ったのが、「醗酵社」。1880年には麹町区(現在の千代田区)紀尾井町に移転し、翌 81年に発売したのが「桜田ビール」です。
 1890年に「桜田麦酒会社」、1896年に「東京麦酒株式会社」と社名変更。翌97年に神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町(現在の横浜市保土ヶ谷区)へ移り、翌98年にはブランド名を「東京ビール」としていきます。しかし、1906年に設立した大日本麦酒に買収され、歴史を閉ざします。

 スプリング・ヴァレー・ブルワリーで働いていた浅田甚右衛門という人が、東京府下中野に建てたのが「浅田麦酒醸造所」で、ブランドは「浅田ビール」。倒産した「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」の醸造施設を買い取り、技師なども招いて運営をしていきます。
 上記の「桜田ビール」とともに、「浅田ビール」は当時非常に人気があったようで、確実にビール愛好家を増やしていきます。
 ところが、このあとに出てくる「ジャパン・ブルワリー」を初めとする大資本型のビール会社が、こぞって「ドイツ流」のビールを出していくのに対し、桜田ビールと浅田ビールは「イギリス流」のビールで勝負し続けていきますが、民衆の嗜好は「ドイツ流」に傾いていきます。

 これを単に、大資本vs中小企業という構図で見るのは、あまり正しいとは言えません。現在では発泡酒などの登場でビールの傾向も変わってきていますが、「イギリス流」のエールなどよりも、「ドイツ流」のビールが日本人の嗜好に合うのではないのでしょうか。嗜好品は、ブランド名が強ければ有利ですが、新規参入が市場を一気に覆すケースもまれではありません(ただ、日本では硬直化が進みすぎているのと、政府(官僚)の産業過保護気質により、新規参入の余地が少ないのが欠陥)。

 話がそれてしまいましたが、
 結局、桜田ビールも浅田ビールも、ドイツ流へ転換していきます。しかし、さきほどの主張とは逆のように思えるかも知れませんが、いくら世の中の流れがそうなっているからといって、中小規模の会社が大企業と同じことをしては勝負にならないのは自明の理でした。厳しいようですが、嗜好を見極めつつ、独自色を出すという、言うには簡単ですが実行するには非常に難しい方策を打ち立てることができなかったため、敗北。「桜田ビール」は買収され、「浅田ビール」も1912年には自主廃業してしまいます。


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*ジャパン・ブルワリー

 スプリング・ヴァレー・ブルワリーが倒産した後、なお多くの技師や社員たちが残りました。
 三菱商事の相談役だったトマス=グラバーが、三菱財閥の岩崎弥之助を誘い、スプリング・ヴァレー・ブルワリーの醸造所を買収。かつての技師や社員たちも取り込んで、「ジャパン・ブルワリー」を設立したのです。これが1885年のこと。
 1907年には明治屋と手を組んで、日本人資本による新会社「麒麟麦酒株式会社」を設立し、これで「ジャパン・ブルワリー」は事実上倒産(ただし、設備・人材などはそのまま継承。資本と社名が変わっただけ、と思って貰えればいいです)。


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*大日本麦酒

 1906年に誕生した「大日本麦酒株式会社」の前身は、「大阪麦酒」、「札幌麦酒」、「日本麦酒」の三社です。

 1886年、大倉喜八郎の「大倉組商会」が、北海道で1876年から稼動していた「開拓使麦酒醸造所」の払い下げを受けます。そして翌1887年に、渋沢栄一や浅野総一郎らとともに「札幌麦酒株式会社」を設立します。

 1887年、東京府荏原郡目黒村三田(現在の東京都目黒区三田)に「日本麦酒醸造会社」が登場。場所は東京府恵比寿(ちなみに、1910年に日本鉄道がこの工場の貨物駅に「恵比寿停車所」と名付けたことから、地名が「恵比寿」となったとのこと)。ここが1990年に出したのが「ヱビスビール」。

 1889年、鳥井駒吉という人が大阪府堺市(現在の大阪府堺市堺区)で建てたのが「大阪麦酒会社」。1892に出したのが「アサヒビール」。1893年に社名が「大阪麦酒株式会社」となります。

 これら3社が統合されることになりました。1906年のことです。

 音頭を取ったのは、第一次・桂太郎内閣の農商務大臣・清浦奎吾[きようら・けいご] 。後の第23代内閣総理大臣で、「特権内閣」などと言われて、政治史的にはあまり評判の良くない人ですが、それはさておいて。

 まだ明治末期。まだまだ西洋化の途上段階で、西洋の真似事を試しては潰れていく産業がまだまだ多い時代。ビール産業も、このままでは日本に根付きそうにない様相。事実、小規模な企業が挑戦しては跡形もなく消えていきます。当時としては「何とか産業を守り、発展させねば」と国が考えるのも無理はありません。なにしろ、まだ「発展途上」の段階なのですから。

 ところがこの呼びかけに応えなかったのが、ジャパン・ブルワリー。
 彼らは、日本人だけの資本で、日本人による経営を目指していたのです。上記の通り1907年には「麒麟麦酒」へと変身しました。
 
 話を戻して、大日本麦酒は中小規模のビール会社も統合していき、北海道から大阪までを網羅する大企業となりました。この時使った商標は、

 北海道・東日本:サッポロ
 東京・関東:ヱビス
 中京:ユニオン
 西日本:アサヒ

 です。
 ちなみに「ユニオンビール」は、1887年に成立した「丸三麦酒」から派生した「日本麦酒鑛泉」という会社の銘柄で、ここは他に「三ツ矢サイダー」などを作っていました(現在は「アサヒ飲料」のブランド)。

 しかし、戦後の1949年になると、GHQの「過度経済力集中排除法」が施行されます。
 これは明治初期における日本の発想とは逆です。考え方のひとつとして「ひとつの(あるいは少数の)企業が市場を独占している状況は好ましくない」ということです。市場を独占している企業によって、価格も流通も思いのままであれば、中小企業は常に大企業の顔色を伺わなければならないし、消費者も選択の余地がなくなってしまう。
 もちろん、GHQとしては、そのような大企業から政府(この場合は軍事政権)に資金が流れ込むのを防ぐのも目的のひとつでした。

 さて、これによって「大日本麦酒」は分裂します。
 「日本麦酒株式会社」と「朝日麦酒株式会社」です。

 この「日本麦酒」が東日本の「サッポロ」と「ヱビス」を抱え込んで、やがて1964年に「サッポロビール」となります(「ヱビス」はブランド名として残ります)。ちなみに、現サッポロビール株式会社の設立は2003年で、会社分割によるものです。正式名称は「サッポロホールディングス株式会社」。

 一方、「朝日麦酒」が西日本の「アサヒ」と「ユニオン」を抱え込んで、やがて1989年に「アサヒビール」となるのです。


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*サントリー

 1899年、鳥井信治郎が大阪府大阪市西区で作ったのが「鳥井商店」。1906年に「寿屋洋酒店」と名前を改め、「赤玉ポートワイン」を発売し、1921年には「壽屋」と改名。やがて国産ウィスキーの製造・販売に乗り出します。
 1928年に、神奈川県横浜市鶴見区の「日英醸造」を買収。ブランドの「カスケードビール」改め、「新カスケードビール」を製造販売し、これは「オラガビール」と改名していきますが、この頃はすでに「麒麟麦酒」と「大日本麦酒」という2強がおり、しかも「低価格販売」という、大企業に「逆らう」方針だったことから圧力を受け、1934年にビール事業から手を引くことになります。

 1960年。当時、社長代行となっていたのが、信治郎の次男だった佐治敬三。(母方の縁者と養子縁組したため姓が異なります。ちなみに長男・吉太郎は1940年に夭折)。
 「壽屋」といえば「ウィスキー」。その地位を確固たるものにした反面、社内がそれに甘んじ弛んでいると感じ取った彼は、自宅療養中だった信治郎の枕元で「大きなことをしたい」旨を伝えると、信治郎はこう言ったという。
「わてはこれまでウィスキーに命を賭けてきた。あんたはビールに賭けようというねんな。人生はとどのつまり賭けや。わては何も言わん。やってみなはれ」
 1962年に信治郎が亡くなり、敬三が社長となった1963年、社名を「サントリー」と改名。一旦は手を引いていたビールへ再挑戦します。この時に出したブランドが「純生」。しかし、すでに「麒麟麦酒(キリンビール) 」、「アサヒ」、「サッポロビール」の3強が市場を席巻している状態だったので、やはり執拗な圧力・攻撃を受けることになります(今回は、黎明期の流れだけの話なので省略します)。2008年、出荷量で国内第3位となりますが、あまり好意的に捉えていないマスメディアもあるようです。まだ「新興企業」なのですね。


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*オリオンビール

 1957年5月18日。沖縄県名護町(現在の沖縄県名護市)で設立されたのが「沖縄ビール株式会社」。公募により、1958年1月からブランド名を「オリオンビール」とし、翌1959年6月に社名も「オリオンビール」と改名しました。
 全国シェアでは大手4社に引けを取るものの、沖縄県ではトップシェアを誇ります。
 この会社の大手株主がアサヒビールで、沖縄県と奄美大島以外でのオリオンビールの販売を、アサヒビールが出がけています。



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 以上、日本のビール業界における興隆の、大雑把な流れでした。サントリーの部分だけちょっと毛色が変わってしまいましたが、ご愛嬌ということで。
 もっと早くまとめられるかなと思っていたのですが、これでもかと資料が出てきて大変な作業になりました。各ビール会社の社史や、郷土産業資料館から資料などを集めていけばもっと詳細な内容が出来たかも知れませんが、時間と手間の都合でそこまでは無理でした。一冊の本にするわけではないので、ここまでやればとりあえず十分かな、と(本気でまとめあげようとしたら、社長とか醸造所長とかの話も聞いてみたいし(ツテはないですけど)、銘柄の変遷なども盛り合わせようと思ったら1年はかかりますね)。ところどころ、感想や他分野の情報が入り込んでいるのは、まあいつものことですね。

 さあて、棚には薬草系リキュールが3本増えたし、記事としてはウィスキーもブランデーもワインも残ってるし、どこから行こうかな。



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ご無沙汰しています。
いつも読み逃げしてごめんなさい。<(_ _)>

ものすごく深く興味深いエントリーですね。
倖成さんってウイスキーやリキュールの知識が豊富な方だと思っていましたが、ビールにまで精通されていたんですね。
栗色の息吹は、ビールメーカーの好き嫌いの分類しかありませんでした。

「美味しんぼ」で、舌の上に金属のスプーンをおしつけたような味がすると酷評されたアサヒスーパードライが一番好きです。(笑)

このビールは、スーパードライ派とアンチスーパードライ派にはっきり分かれるビールですね。
居酒屋でバイトしている時に、普通にスーパードライを出すと怒り出すお客さんまでいました。

栗色の息吹は、最終的にはビールであるならば何でもいいほうなので、この辺りの感情がよく分かりません。
2008.07.28 19:19 | URL | 栗色の息吹 #OARS9n6I [edit]
>栗色の息吹さん

 読んでもらうために書いているので、目を通していただけるだけで十分ですとも。もちろん、コメントがあれば2倍嬉しいです。

 今回は銘柄を扱っていませんが、主流派と反主流派との対決は、感情に帰するところもあるでしょう。『アサヒ スーパードライ』は爆発的人気を生み出したビールだけに大好きと大嫌いとに大きく分かれたといえるでしょう。もっとも、怒るぐらいなら店内のポスターを見ろ、どこのビールを出すのか分かるだろ、と言いたくなりますが(苦笑)。
 メーカーで買うのも、もちろんアリです。ただちょっとだけでも、そこがどういうメーカーなのか、どういう歴史があるのか、どういう人たちがいたのかを知っているだけで、より好きになったり、話の種になったりするので、深く調べてみるのもまた面白いかと思いますし、私自身も今回の作業は楽しかったです。
2008.08.03 09:43 | URL | 倖成 #iqhSIKS2 [edit]
前史の部分が特に興味がもてました。面白かったです。意見としては、1、大阪府大阪市とか大阪府堺市堺区のようにわかりきった府の名はことさら書く必要は無いと思います。WIKIやブログにはよくありますが。もしそうするのであれば、統一したやり方で東京府東京市芝区桜田、、というようにしなければなりません。2.関西弁がおかしいです。よく研究してから欠いてください。女形や藤山寛美ではないのですから、「わては、、」等とは言う筈がありません。折角の良く調べ上げられた内容が台無しです。失礼
2008.08.20 16:44 | URL | みなみみちお #yLmRr7g. [edit]
>みなみみちおさん

 ご意見ありがとうございます。
 1.堺市は2006年4月1日から区制の導入によって「区」が導入され、それ以前には「堺区」は存在していませんでした。分割されただけで新地名になったわけではないので、逆にわずらわしく感じられたかも知れませんが、基本的に現地名と異なる場合に( )を入れさせてもらっています。

 2.記載漏れで、申し訳ありませんでした。これは日本経済新聞社発行の『へんこつ、なんこつ』からそのまま引用です。私の創作ではありません。
 「わて」という言葉は、確かに現在ではほとんど使用されていない、少し古い言葉です。東京(江戸)の「あちき」や「わっち」などと同様に、「死語」と化していますが、かつては普通に使われていた言葉です。分類上では女性語となっていますが、昭和の頃の談話などで男性が使っていたりもします。違和感を覚えてしまわれたかもしれませんが、かつてはそういう言い方をした人もいたのです。

 ご指摘を受け、調べ直したり、改めて確認し直したりしてみました。
 もしまた不可解な記述、おかしいなと思われた部分などございましたら遠慮なくコメントを入れてください。
2008.08.23 19:18 | URL | 倖成 #iqhSIKS2 [edit]


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